私たちが今日「デザイン」と聞いて想像する範囲はかなり幅広い。ロゴマークから、歯ブラシの形状、クラウドサービスの仕組み、あるいは組織の改革まで。一方、デザインを思考法としてとらえる視点が20世紀後半から現れ、やがて「デザイン思考」はビジネスの現場にも応用されてきた。形あるものの設計に留まらない、課題解決のためのデザイン的アプローチが注目され始めたのである。
2018年5月、経済産業省・特許庁の「産業競争⼒とデザインを考える研究会」は「デザイン経営」宣⾔を公開した。ここでのデザインもまた、企業の業種や規模によらず活かし得る「デザイン思考」に立脚したものだ。発明、実用新案、意匠および商標に関わる同庁が、その管轄領域から国内企業を後押しする提言といえよう。本記事ではこの「デザイン経営」の可能性を探るべく、デザイン思考を生かして国内スタートアップ企業への投資・支援を行う、D4V合同会社を訪ねた。
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1.ビジネスに活きるデザイン思考とは
D4Vは、「Design for Ventures」に由来する社名を持つベンチャーキャピタル。米国西海岸発祥の国際的なデザインコンサルティング企業であるIDEO(アイディオ)と、日本のベンチャーキャピタルGenuine Startups 株式会社の合弁で2016年に設立された[1]。Genuine Startupsの実績を軸に、より幅広い国内スタートアップへ積極的に投資し、さらにIDEOの知見を活かして投資企業にデザイン主導型アプローチを提案できることが特徴だという。
今回は、ポートフォリオディレクター / ファウンディングメンバーの井上加奈子氏に、デザイン経営の持つ力と可能性について伺った。同氏はベンチャーキャピタリストとしての業務全般に加え、D4Vに資金運用を委託する投資家(リミテッド・パートナー)への対応も行う。
「日本では、デザイン=意匠的なものをイメージされる場合が多いですが、私たちにとっての“デザイン”の定義は、かなり幅広いものです。見た目の美しさには留まらず、ユーザー体験、システム、ビジネスなど形のないものも含めたあらゆるモノ・コトをデザインの対象としています。そして、全てのケースにおいて、必ず”人”を起点に問いを立て、デザインを考えます。
IDEOによる支援例からご紹介すると、処方薬配達サービス『PillPack』があります。登録ユーザーに対し、1回の服用ごとに飲むべき薬をプラスチック袋に小分けして配達するシステムです。大量の薬を服用する年配者や慢性疾患をもつ人たちにとって、これは飲み忘れ/飲み間違いも減り、生活を快適にするとても効果的なアイデアでした。PillPackは昨年、Amazonによる買収に合意し、その額は10億ドル(約1100億円)と報じられました」
2013年起業のPillPackは薬剤師とエンジニアが出会って生まれたベンチャーで、IDEOのインキュベータープログラムを経たのちに875万ドルを調達して成長し、上述の買収に至った。今まで医療業界で見過ごされてきた課題と向き合い、患者の体験のデザインに成功した例といえる[2]。
2.バイアスなき発想と、人間中心の洞察を重視
興味深いのは、PillPackが生まれる前、ニーズ調査のために行ったユーザーインタビューでは、多くの服薬ユーザーが「特に困っていることはない」と答えたという話だ。しかし、実際に暮らしの場を訪ね、一日の行動を観察させてもらうと、薬の煩雑な組み合わせに苦労し、使いにくい薬剤ボトルをカッターでこじ開けて使っているなど、明らかな潜在ニーズを発見。これがPillPackを生んだ。
PillPack
「人間は誰もがバイアスを抱えて思考しがちです。それをいかに取り除いて発想できるか。また、ユーザーは答えそのものは持っていないかもしれませんが、種(たね)のようなものは確実に彼らの側にあるのです。こうした考え方から、意外性のあるものも含めて多様な解決法を探れるのが、デザイン的アプローチの強みでしょう。これは企業の業種や規模によらず活かし得ると思います。
一方、特にベンチャーなどでトップがしばしば陥りやすいのが、“これは良いサービスだから、必ず広まる”というバイアスを抱えてしまうことです。自社サービスへの“思い”の強さは重要です。でもそれがいつの間にか客観性を欠いた“思い込み”になっていないか。またそれに気づいた時、柔軟に対応できるか。ベンチャーにピボット(方針転換)は付き物ですから、投資側としては事業案の完成度より、柔軟さを重視することもあります」
3.「デザイン経営」を考える
それでは、企業経営に必要な「デザイン思考」とは何か? IDEOのティム・ブラウン会長によれば、デザイン思考とは単に美や使い易さの追求ではなく、人々のニーズを探り出し、飛躍的な発想で生活を豊かにするデザイナー的思考全般を指す[3]。その根底には、「人間中心デザイン」という考え方があり、ユーザーだけでなく作り手も含む「人」の動機や行動への深い理解や共感が、すべての起点となる。人を観察、共感し、多彩な発想から選択肢を広げる「発散」と、それを絞り込んでいく「収束」を繰り返しながら、プロトタイピング&ストーリーテリング[4]を行うプロセスは、井上氏の言葉に通ずる部分が多い。
そう聞くだけだと、多くは従来から商品開発や組織運営の現場で称揚されてきた経営哲学にも近いものがあるように思えるだろうか。しかし今日、デザイン思考をめぐる「使える技術的知見」も蓄積が進んでいる。他ならぬIDEO社自身が、マイクロソフトからP&Gまで——言い換えれば最新情報産業から一般消費財まで、きわめて多様な国際的企業を顧客に実績を築くことで、今日に至る。
「シリコンバレーでは10年以上前からデザイン思考についての議論と実践が続いてきたこともあり、ニーズを探るユーザーインタビューや、取り入れた施策の定量的な評価指標や測定技術は発展を遂げています。Google Analyticsのような手軽なWeb解析ツールの普及もありますね。
こうした知見を活用したベンチャーの成功例も多く、宿泊施設のマッチングサービス『Airbnb』もその一つといって良いでしょう。ですからD4Vとしても、まずは投資先から一定以上の成功事例が生まれることが、次のステップに向けて重要だと考えています[5]。残念ながら日本は未だこうした領域の空白地帯とも言え、しかしだからこそ可能性があるという考えが、D4Vの設立背景にもあります」
インタビューに答える井上氏
[1] 出資比率はGenuine Startupsが60%、IDEOが40%。会長にはIDEO共同創業者のトム・ケリー氏が、CEOにはGenuine Startups から高野真氏が就任した。
[2] 実際にはその背景に、登録ユーザーが使うウェブサイトから、薬剤の自動振分システム、薬剤のパッケージなど、多領域における有効な「デザイン」の実装がある。IDEOはPillPack社と共にこれらにも携わった。
[3]ティム・ブラウン『デザイン思考が世界を変える』千葉 敏生訳、早川書房、2014年
またブラウンによる講演「デザイナーはもっと大きく考えるべきだ」はこのトピックを簡潔に説明しており、以下で映像も公開されている(字幕付)。https://www.ted.com/talks/tim_brown_urges_designers_to_think_big?language=ja
[4]プロトタイピングは、解決方法とその「確からしさ」を確認するための試作。プロジェクトを通じて様々なフィードバックを受けながら更新される。ストーリーテリングはユーザーの物語を説得力ある形で具現化する作業で、これによってプロジェクトに一貫した共感を形作ることができる。
[5]2018年4月24日、D4Vは、「D4V1号投資事業有限責任組合」の約53億円の資金調達をクローズしたことを発表。第2号ファンドの運用に進んでいる。投資先企業はD4Vのウェブサイトでも紹介されている。https://d4v.com/
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