1.はじめに
近年、教育・徴税・働き方改革・SDGs(国連持続可能な開発目標)等のさまざまな社会課題の解決の1方法としてナッジが注目されている。ナッジとは、行動科学の知見に基づく工夫や仕組みによって、人々がより望ましい行動を自発的に選択するよう促す行動経済学の理論であり、ナッジの提唱者であるリチャード・セイラー博士が2017年にノーベル経済学賞を受賞したことにより、注目が高まっている。
人々の自由意思を尊重しつつ、より望ましい行動へ「そっと」誘導するこのような考え方は、行政活動において有用であると我々は考えている。市民感情の反発を招きかねない強制や、ともすれば不平等に繋がりかねないインセンティブに頼ることなく、人々が自分自身にとってより良い選択ができるようになるからである。一方で、ナッジにICTを活用することも重要な検討事項である。ICTと組み合わせることで、個々人の多様性を考慮したナッジ活用政策を実施できることに加え、政策効果の分析が容易になることも期待できる。モバイル端末の個人保有率が80%を超える昨今のICT事情を鑑みると、今後ますますICTを活用したナッジ活用政策の重要性は増していくだろう。
このようなナッジの考え方に基づき我々は、南三陸町のバイオガス事業[1]にICT×ナッジを適応した。本稿ではこれら活動について紹介すると共に、本活動を通して得られた知見から行政におけるICT×ナッジの適用可能性について考察する。
2.南三陸町の事業概要とその課題
南三陸町におけるバイオガス事業では、これまで処理されていた有機系廃棄物(生ごみ、し尿・合併浄化槽汚泥)の資源・エネルギー化を実現し、ごみの排出量低減、再生可能エネルギー創出等を通じた循環型社会の構築を目指している。我々はこの事業の内の1つである家庭の生ごみの再資源化についてICTを用いたナッジの活用を試行している。我々の行っている家庭の生ごみの再資源化とは、図1のように家庭から排出される生ごみを地域住民自らがごみ集積所にある専用バケツに出し、収集業者である有限会社リアス・エンジニアリングがその専用バケツをバイオガス施設である南三陸BIOへ運搬、そしてアミタ株式会社が南三陸BIOで生ごみをエネルギーや液肥に変換する活動である。この活動は2015年10月より開始されたが2018年6月時点では以下の課題を抱えていた。
- 生ごみの収集量をさらに増やし、資源循環を促進する
生ごみを資源循環させるには生ごみをごみ集積場にある専用バケツに入れる必要がある。つまり、今まで可燃ごみとして出していたごみの中から生ごみを分別する必要があり、以前のごみ出しと比べて手間が増える。この手間が、生ごみと可燃ごみを分別しないで処分するという事態を生んでおり、この事態の解決が必要であった。
- 異物の混入率を下げる
生ごみの中に異物が混入しているとバイオガス施設の劣化を早めてしまう。そのため、異物の混入率を下げることが課題であった。
図1 南三陸町の資源循環モデル
(出典)NECソリューションイノベータ作成
3.課題に対する解決策の検討
上記課題に対して我々はICTを活用した資源循環のデジタルデータ化およびナッジを活用した施策を検討し、実証実験にて施策の有効性を検証した。本章ではこれらの内容について紹介する。
3.1. ICTを活用した資源循環のデジタルデータ化
我々が本格的に参画した2018年6月時点では生ごみ収集に関する計測データは少なく、また、計測データを紙で管理していたため、施策を実行しても効果があったのかをデータから確認することが難しい状況であった。そこで我々は図2のようなシステムを準備、収集業者のメンバーに協力いただき、データ計測を開始した。これにより、いつ・どこで・どの程度の生ごみが排出されたのかを高い精度で把握することが可能となった。
図2 データを計測する仕組み
(出典)NECソリューションイノベータ作成
3.2.ナッジを活用した施策の検討
資源循環のデジタルデータ化と並行して、南三陸町の資源循環モデルが抱える課題を解決するナッジ施策の検討を進めた。
今回、この課題に対して、「他者から何かをしてもらった時にお返しをしたくなる」という返報性の原理、「感謝の表出は世の中にとって良い行動を生み出し、新たな感謝が生まれる」という感謝の循環性に着目して解決方法を検討した。感謝および返報性に着目した理由は、我々が以前から「ICT×感謝」に関する研究[2]を進めており、本ケースも感謝による改善が見込めると考えたからである。
我々が検討した課題解決の仮説(ナッジ施策)を図3に示す。蔵永らの研究結果[3]によると「感謝を受け取った人は返礼意識を抱き、その結果、世の中にとって良い行動(向社会的行動)として表出、それを見た人達がまた感謝の念を頂き、感謝を伝える」という、感謝には循環性があることが示唆されている。この原理を南三陸町の資源循環モデルに適応することによって課題を解決できると考えた。具体的には、南三陸町から地域住民に対して「生ごみをだしてくれてありがとう、分別してくれてありがとう」という気持ちを伝えることによって、地域住民が返礼意識を抱き、資源循環モデルにとって良い行動(生ごみを正しく分別して専用バケツに出す)が表出するのではないかと考えた。
図3 課題解決の仮説(ナッジ施策)
(出典)NECソリューションイノベータ作成
4.実証実験の実行と評価
検討した仮説によって課題が解決できるのかを検証するために、2018年9月より1週間に6か所、計42か所(台風などの影響を受けたため有効データは31件)のごみ集積所に感謝状を設置した(図4)。
感謝状には、資源循環モデルへの貢献に対する感謝の気持ちを文面で表現し、また、どのような状況に対して感謝しているかがわかるように、過去1か月の生ごみ収集状況を貼り出すようにした。
図4 感謝状設置の様子
(出典)NECソリューションイノベータ作成
4.1. 実験結果
感謝状を掲示した群(掲示群:31か所)と感謝状を掲示しなかった群(非掲示群:219か所)の感謝状掲示前後の平均変化量を図5に示す。平均変化量は資源量スコア6段階、分別品質スコア3段階の平均値を求め、算出した。ごみ集積場に配置されているバケツの個数はごみ集積場によって違うため、1バケツあたりの資源量と分別品質を算出しグラフ化している。また、非掲示群は感謝状を掲示した日の平均である2018年10月3日を基準として変化量を算出している。
図5 実験結果
(出典)NECソリューションイノベータ作成
4.2.考察
資源量については、掲示群と非掲示群の1バケツあたりの生ごみ量の平均変化量に有意な差はみられず、共に増加傾向にあった。今回の実証実験では感謝をフィードバックした日がごみ集積所によって違うため、季節性の影響を受けたためと考えられる。
一方、掲示群の方がより増加する傾向があることも確認された。これらの結果より、実験設計を見直すことによって、掲示群の資源量が有意に向上する可能性があると我々は考えている。
分別品質については、掲示群が向上し、非掲示群はほぼ変化がないことが確認され、2群には有意な差があることが確認された。この結果より、感謝状を掲示することによって分別品質が向上することが示された。
これら結果より、感謝の返報性を活用すると、生ごみ収集に対する住民意識をポジティブに変容できる可能性があると考えられる。
5.ごみ収量のデータ化によるその他の効果
生ごみの収量をデータ化することにより、ナッジ施策の効果分析以外の活用方法がわかってきた。本節ではその内容について紹介する。
収集ルートの最適化
生ごみの収集に関するデータの活用により、既存の収集ルートを把握することができる。また、このデータを活用し、計算機で収集群の最適化/収集ルートの経路最適化を求めた結果、1回の収集で約19km、1年間で約1,976kmもの移動距離を短縮できる可能性があることがわかった。このように集まったデータを元に最適化を検討することによって、業務効率化につなげることもできる。
ごみ集積所に配置する生ごみ用バケツの個数最適化
生ごみバケツに大量のごみが入っている場合、収集トラックに載せる業務で身体に大きな負担がかかるという問題がある。この問題について過去のごみ出し傾向より、各ごみ集積所にどの程度バケツを配置すれば1バケツあたりのごみの量を減らすことが可能かを算出することができ、作業者の負担を軽減できる可能性があることがわかった。
これら事例は、昨今話題となっているデジタルトランスフォーメーション(※1)の概念の具体化に近く、データから導きだされる結果は人々の生活をより良い方向へ変化させる重要なファクターであることを示していると我々は考えている。
(※1)デジタルトランスフォーメーション(DX)とは:「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という概念である。2018年、経済産業省が「DXを推進するための新たなデジタル技術の活用とレガシーシステム刷新に関するガイドライン」を公開したことにより日本での知名度が上がり、近年DXを推進する企業や自治体が増えている。
6.行政におけるICTやナッジの適用可能性
2~5章で紹介した活動の知見から、行政におけるナッジ・ICTの適用可能性について考察する。
6.1.行政におけるナッジの適応可能性
我々は、さまざまな行政活動にナッジは適応可能と考えている。2章の事例では「南三陸町の住民に感謝を伝える」という、とても簡単なナッジ施策で資源循環を促進した。このように、ナッジと聞くと、難しそうに感じるかもしれないが、実際は「少し視点を変えて物事を伝え、相手の認識を変える」というだけなので、決して難しいことではない。行政活動でのナッジの事例としては、災害時に予防的避難を促す際のメッセージにナッジの要素を入れる[5]などがある。また、横浜市行動デザインチームは地方自治体におけるナッジの実装に向けた体制構築を目指している[6]。このように、自治体におけるナッジ活用は始まりつつある。
今後、ナッジの活用を検討する際には、まずはチェックリスト型のフレームワークであるEAST(図6)の枠組みから考えてみるのがよいだろう。
EASTとは検討した施策がナッジを満たしているかをチェックするためのフレームワークで、4つの構成要素から成り立つ。検討した施策が各要素を満たすかをチェックし、満たさない場合は、満たすように施策を改善することでナッジに必要な観点の抜け漏れをなくすことができる。各要素は効果的なナッジでよく見られる共通点を抽出した物で、すべて満たせばナッジとなるわけでもなく、また、すべて満たさないとナッジにならないわけでもない。明確にナッジを定義することは難しいが、まずはEASTを使った施策検討をお勧めする。
さいごに、初めてナッジ施策を実施する時には専門家の手を借りることも検討してほしい。効率的な施策の設計にはノウハウが存在し、施策の立案にも妥当なエビデンスが必要となるためである。知識がない状況で進めると非効率的な施策になる可能性が高く、また、エビデンスに基づかない直感・経験則による施策になってしまう可能性もある。行動経済学は、他の学問に比べて比較的歴史が浅いものの、急速に研究が進んでおり、多くのノウハウが蓄積されつつあるので、ぜひ専門家と共に、行動経済学の知見を活用してほしいと思う。
図6 チェックリスト型のフレームワーク EAST
(出典)第9回日本版ナッジ・ユニット連絡会議 資料4を参考に作成
6.2.ICT×ナッジの展望
我々はナッジの提供とナッジ施策の効果分析という2つの側面においてICTが有用であると考えている。
まずはナッジの提供に関して、我々の考えを説明する。近年のスマートフォン普及率を考えるとスマートフォンを活用したナッジ施策が今後増えると考えている。例えば、先述の豪雨災害の予防的避難の促進ナッジ[5]における住民へのメッセージを届ける部分にICTを活用できるであろう。この事例以外にも我々は奈良県生駒市にて「日常の『ごみ出し』を活用した地域コミュニティ向上モデル事業」の実証実験[7]を進めており、この実験では、SNSアプリを活用してナッジ施策を提供している。このように一人一人がネットワークと接続する機器を携帯する昨今を考えると、ICTを活用したナッジ提供は様々なケースで有効であり、ビッグデータに基づいて個人の特性にあわせてカスタマイズされたナッジの提供すらも可能になるであろう。
ICTはナッジ提供のみならず、施策の効果分析にも有用である。ナッジは必ずしも施策者の思ったとおりに効果が生まれるとは限らないため、状況を特定し、「実験」してみるTest、そのTestの結果から施策の効果を検証するLearn、そしてより有効な施策を適用するAdaptの繰り返しにより改善を図る必要がある[8]。このサイクルにはデータが必要となり、ICTを活用したデータ収集は一つの有効策となり得るだろう。ただし、ここで課題となるのは「どのようにICTを準備するのか」である。この課題に対して、第2 ~ 5章の我々の事例ではアジャイル開発技法(※2)を活用し、2か月という短い期間でデータを収集するICTの準備を完了させた。開発初期には、ペーパープロトタイピングを行い、実際の使用者である収集業者のメンバーに利用可能かをヒアリング、徐々にシステムをブラッシュアップしていくことにより、短い期間で、利用可能な仕組みを準備した。このように、いきなりシステムを設計・準備するのではなく、使用者の声を聴きつつ、徐々に仕組みを準備するのが良いと我々は考えている。近年ではノンプログラミングでシステムを作るサービス[9]などもあるので、ナッジ施策を実行する時には、ぜひ、データ計測の仕組み作りも併せて検討してほしい。
(※2)アジャイル開発技法とは:アジャイルとは『すばやい』『俊敏な』という意味で、反復(イテレーション)と呼ばれる短い開発期間単位を採用することで、リスクを最小化しようとする開発手法の一つある。
7.おわりに
本稿では、南三陸町の資源循環の促進のために我々が取り組んだ内容の紹介、その活動から得られた知見から行政におけるナッジやICTの適用可能性について考察した。
我々はさまざまな行政活動にICT×ナッジは適応可能と考えており、これから事例も増えてくることが期待される。我々は、今後、資源循環の促進以外の行政活動についてもICT×ナッジの活用を促進していきたいと考えている。もし、ナッジ施策の検討でお悩みの方がいたら、いつでも気軽に相談いただければ幸いである。
謝辞
本研究を遂行するために実証実験に協力いただいたアミタ株式会社櫛田氏、成瀬氏、藤田氏、野添氏および有限会社リアス・エンジニアリング伊藤氏および南三陸町環境対策課佐藤氏に感謝の意を表する。
引用
[1]南三陸町 バイオマス産業都市構想の概要
https://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/index.cfm/8,6273,c,html/6273/20141105-143908.pdf(2020/02/05アクセス)
[2]タァンクァン ファン,山本純一,西井一輩,福井知宏:組織内の感謝が多いと従業員エンゲージメントは向上するか?,情報処理学会第81回全国大会1H-03(2019)
[3] 蔵永瞳,樋口匡貴:感謝生起状況における状況評価と感情体験が対人行動に及ぼす影響, 心理学研究84.4(2013):376-385
[4]「ICTを活用した生ごみ分別の参加状況可視化実験」が「ベストナッジ賞」を受賞
https://www.nec-solutioninnovators.co.jp/press/20191226/index.html(2020/02/05アクセス)
[5]松尾佑太,坂田桐子,大竹文雄:豪雨災害の予防的避難の促進ナッジ,行動経済学会 第13回大会
[6]高橋勇太,植竹香織,津田広和,大山紘平,佐々木周作:地方自治体におけるナッジの実装に向けた体制構築と普及戦略-横浜市行動デザインチーム(YBiT)の取組事例に基づく提案-,行動経済学会 第13回大会
[7]アミタ(株)、NECソリューションイノベータ(株)は、12/20より、奈良県生駒市にて「日常の『ごみ出し』を活用した地域コミュニティ向上モデル事業」の実証実験を共同で開始します。
https://www.nec-solutioninnovators.co.jp/press/20191216/index.html(2020/02/05アクセス)
[8]Laura Haynes, Owain Service, Ben Goldacre, David Torgerson: Test, Learn, Adapt: Developing Public Policy with Randomised Controlled Trials, London Cabinet Office(2012)
https://assets.publishing.service.gov.uk/government/uploads/system/uploads/attachment_data/file/62529/TLA-1906126.pdf(2020/02/05アクセス)
[9]kintone - サイボウズの業務改善プラットフォーム
https://kintone.cybozu.co.jp/(2020/02/05アクセス)
日室 聡仁(ひむろ あきひと) NECソリューションイノベータ株式会社 イノベーションラボラトリ 資源循環型社会の実現を目指し、ICT・行動経済学の活用を研究しています。21世紀のこれからの未来に向けて、限りある資源を効率的に利用し、かつ、良好な環境を維持し続けるには、ICTによる最適化と人を良い方向に導く動機づけが重要と考えています。これからもICT・行動経済学を活用した仕組みを世の中に出していきます。 |
後藤 晶(ごとう あきら) 明治大学 情報コミュニケーション学部専任講師、博士(情報コミュニケーション学) 山梨英和大学人間文化学部助教、多摩大学経営情報学部専任講師を経て現職。主な研究テーマとして「不確実性の存在する事象としてのカタストロフが人間行動に与える影響」「クラウドソーシングを用いたオンライン上における経済ゲーム実験環境の開発」「情報社会における信頼の創造・毀損・回復過程の解明」「行動経済学の政策応用を目指した実験・調査研究」に取り組む。 |