政府の技術機関「GovTech」が立ち上がって2年が経った。政府が提供するサービスを受ける際の個人情報を管理する「MyInfo」や、行政の問い合わせ窓口を一元化した「OneService」など、めまぐるしいスピードでサービス開発を行っているシンガポール政府。彼らはどのようにデジタル変革を推し進めてきたのか。その過程を政府CIOを務めるチャン・チョウ・ハゥ氏に伺った。
―なぜデジタル変革が必要だと思いますか。
チャン氏:現在私たちが抱えている最重要課題の一つは、国民との距離を近づけることです。例えば、Amazonにアクセスすれば簡単に欲しい物を購入できますが、役所に行ったら大量の書類を書いたり様々な手続きをしないといけません。つまり市民は民間企業のサービスを通じて心地よい体験をする傍ら、行政のサービスで非常にストレスの溜まるユーザー体験をしているのです。この課題に対して政府はきちんと向き合わないと、市民の不満はますます募り、問題は肥大化していきます。そういう観点からデジタル変革は必須であると私たちは考えています。
―政府がデジタル変革を行う上で世界的に共通する要素、もしくは国によって異なってくる固有の要素は何なのでしょうか。
チャン氏:デジタル変革を行う上で全世界で共通して必要なのが、民間セクターと公共セクターの両者を巻き込んだエコシステムを作り上げることです。特に政府は、民間セクターを含めたプラットフォームになる必要があると考えています。
国や地域によってやり方は違ってきますが、デジタル変革は民間企業なしには成功できません。例えば、香港のような都市では行政は後方から支援する「バックシート」的な立場を取っています。米国でもGoogleやFacebook、Amazonなどの民間企業がデジタル変革を主体的に行っています。一方でシンガポールでは昔から行政が主体となって様々なアクションを起こしています。ただし、私たちの国はとても小さいので、他国と比較して話す際は国というよりその国の中の都市と比較しながら話したほうが良いかもしません。他の国では国単位で変革を効果的に行おうとすると、どうしても大規模なネットやインフラの整備が必要になってくるので、デジタル変革は常に大都市から始まっています。これを踏まえた上で、シンガポールが今回変革を行う過程で得た知見やノウハウは、東京のような都市には役に立つと思います。
―なぜ政府は民間も含めたエコシステムになる必要があるのでしょうか。
チャン氏:政府は大きな組織ですが、市民一人ひとりに目が行き届くほど万能なシステムではありません。したがって、市民の参加はエコシステムを作る上で非常に重要です。例えば、私たちは数年前にmyResponderというサービスをリリースしました。政府は以前からより多くの救急車を出動させたいと思っていましたが、救急車というのは非常にコストがかかるもので、簡単に増やすわけにもいきません。また現在ある救急車を各現場に効率よく配置する事も大きな課題でした。そこで私たちはこの課題の解決に市民を取り込むことにしたのです。具体的には市民にレスポンダー(事故や火事、災害などの緊急時に真っ先に駆けつける人)になってもらいました。心臓発作などで誰かが倒れたら、近くにいるレスポンダーに通知が行くので、駆けつけたレスポンダーたちは救急車が来るまでの間、応急処置をすることで患者の生存率を飛躍的に向上させることができます。現在、多くの場面で市民の参加が必要とされていますが、テクノロジーの利用はそうした市民を上手く取り込むために非常に有効なアプローチなのです。
昔、人々は村や町などの小さなコミュニティーで暮らしていたので、全員がお互いの事を知っていました。何か問題が起きれば、すぐに隣の家に助けを求めれば助けてもらえました。一方現在のシンガポールや東京では、何百、何千という人達が同じマンションに住んでいますが、隣人と知り合いになっている方がどれぐらいいるでしょうか。おそらくほとんどいないですよね。ご近所どころか、隣の部屋に住んでいる人が誰かすら知らない。でもスマホ上では1,000人単位の人と繋がっている。つまり人は現在物理的な距離ではなくデジタル上でつながっているのです。この事実を考慮した上で私たちは市民同士をつなげようとしています。例えばmyResponderには現在2万人登録されており、もし誰かが倒れたとしても、救急車ではなくてこのデジタルプラットフォームによって集まってきた人々が一人の命を救うことが出来るのです。共通した接点や興味範囲によって人々をうまくつなげていくことが政府がデジタル変革を推進していく上で重要です。
実は私の甥が最近新しいマンションに引っ越したのですが、住人たちのFacebookグループがあるそうです。隣の部屋のドアをノックして会う方が簡単であるにも関わらず、彼らはFacebook上で会っているのです。つまり物理的ではなくデジタル上で人はどんどんつながっているのです。プラットフォームを通して人々を同じ場所に集めたり、動いてもらったり、互いを助けあったりする事ができるのがデジタルプラットフォームの一番の強みだと思っています。
―チャンさん自身、そしてシンガポール政府にとっての改革のモチベーション、インセンティブになっているのは何でしょうか。
チャン氏:その答えは非常に簡単です。市民の目に映っている今の政府の姿を変える必要があると分かっているからです。先ほども人と人のつながりについて話しましたが、私たちは巨大な影響力を持つソーシャルメディアに非常に興味を持っています。米国の選挙などはわかりやすい例ですが、ソーシャルメディアの活用は票を勝ち取っていく上で非常に有効な戦略です。ソーシャルメディアを活用しなければ、政権はまず勝ち取れません。ソーシャルメディアやIT空間というのは大勢の人々にリーチできる力を持っています。昔であれば、政府はテレビや新聞を通して国民とコミュニケーションを取っていましたが、一定数の人にしかそのメッセージは響きませんでした。一方デジタルを用いた現在のメディアだと、一人一人に対して別々のメッセージを届けることができます。情報技術の発展に伴い、政府はその人ごとに関係性のある話題や方法でコミュニケーションを取れるようになったので市民の反応や関心度も必然的に上がりやすくなりましたね。
―チャンさんがデジタル変革を行う上で何が障壁となり、どのようにそれを克服しましたか。
チャン氏:実は、私たちが現在抱えている大きな課題の一つが役人の教育です。政府内では未だに昔ながらのやり方にとらわれてデジタルや技術について理解していない人が多くいます。では、そういった人たちをどのように教育していくのか。これは非常に難しい問題です。私も実際多くの壁にぶつかりました。でも彼らに対してきちんと説明して、教育して、そしてシニア層からの支持を得ることはとても重要なポイントです。もう一つ考慮すべきポイントは、人というのはとても自己中心的な生き物だということです。だから相手に対するメリットをきちんと提示しなくてはいけません。自分たちが相手にとって有益だと分かってもらえれば、上の立場の人間は耳を傾けてくれますが、そうでなければ彼らにとってはどうでもいいことなのです。
シンガポールで実際に起きた例について話しましょう。以前電車が毎朝立て続けに止まってしまうトラブルが発生して、多くの人たちが職場に行けずに足止めを食らっていたことがありました。するとある日、私のもとで働いているデータサイエンティストの若者たちが私のところへ来て「もううんざりしているので、私たちにこのトラブルを解決させて下さい」と言ってきたのです。三人の中で一番若かったエンジニアが確か24歳ぐらいだったのですが、彼らに「君たちは電車についての知識はあるのか」と聞いたら「知らない」と言われたので「じゃあどうやって解決するんだ」と聞き返したのです。すると彼らは「でも僕たちはデータの扱い方については分かっています」と言ってきたのです。半信半疑ではありましたが、私は元々知り合いだった鉄道会社の役員に連絡して、後日彼らは鉄道会社のもとへ向かいました。鉄道会社の人に白い目で見られながら彼らはそのまま小さな部屋に案内され、発着時刻などに関するデータを渡されたのですが、なんと5時間後に彼らは解決策を導き出したのです。一般的に電車は対向電車とすれ違う際に電気信号を送り合うのですが、3人はデータを分析したところ、ある一つの車両が誤った信号を発信し続けているのではないかという仮説にたどり着きました。彼らは早速鉄道会社のチーフエンジニアにこの結果を報告し、その問題の車両を運用から外してみたら、なんと見事に問題が解決したのです。当初ありとあらゆる可能性を探るため、鉄道運行システムの大規模な停止なども行い、60人ものシニアエンジニアが2週間かけて様々な方法で原因を探っていたのですが、その3人組はデータを可視化することによって見事に問題を解決したのです。鉄道会社の方たちも最初は「私たちは今総力を挙げてこの問題の解決にあたっているのに、君は何も知らない若者を3人送り込んできた」と不機嫌そうでしたが、実際に問題を解決すると彼らはとても感謝していました。だから相手に対して自分が有益でありあなたの課題を解決することができるということをきちんと証明できる必要があります。一度結果を出すことができれば、相手もあなたの要望を聞いてくれるようになりますからね。
―これから政府として、デジタル化に向けてどのような人材育成のビジョンを描いていますか。
チャン氏:人材における課題はいくつかあります。まず一つ目はどのようにして優秀な人材を獲得していくか。これはとても難しいですね。なぜならトップ企業で働いている人たちは政府に入りたいと思わないからです。政府は何をやるにもスピードが遅く、とても官僚的だと思われています。なので、何度も言うようですが成功例や結果をきちんと見せられるようにしなくてはならないのです。まずそれが出来なければ、間違いなく人は来ないでしょう。例えばパナソニックやトヨタなど世界的に有名な企業に行きたがる人はいますよね。じゃあ政府はどうでしょう。そうはいきませんよね。しかしながら、いずれにせよ政府は優秀な人材を絶対に獲得しなくてはなりません。優秀な人材がいなければ組織は同じことをひたすら繰り返していつまで経っても変わらないからです。
二つ目の問題は文化です。公務員というのは、基本的に何か大きな過ちを犯さない限りは解雇されることもありません。では彼らにとって今ある現状を変えるモチベーションはどこにあるのでしょうか。ないですよね。人がチャレンジしようとする文化を構築することはとても大切です。私はこの集団を最初に立ち上げた当初、しばらく政府機構から距離を置いて集団を運営し、「ここでは一般的に政府がやらないことをできる」という文化を育てていきました。そしてその文化が醸成されてきたら、今度は組織を体系化しました。組織を大きくしていくためには、きちんとした組織の体系化が必要です。これは生き残っていくために必ず必要なプロセスであり、組織を体系化できないと遅かれ早かれ必ずその集団は潰れます。
そして最後の問題は、全員がデータサイエンティストにはなれないということです。3つの中でこれが一番重要だと考えているのですが、世の中にデータサイエンティストはあまり多くいませんが、データを扱える人はたくさんいます。私自身もデータサイエンティストではありませんし、なる必要もないと考えていますが、データ自体は扱えます。なぜなら世の中には解析ツールが豊富にあるからです。多少の数学的思考能力とコンピュータに関する知識さえあれば誰でも扱えます。エクセルが扱えるなら、間違いなく出来ます。私自身がそうでしたから。私が受けたpythonのコースなど実はとても簡単でした。
―しかしデータの扱い方はそう簡単ではないように思えます。どのように人々を教育しているのですか。
チャン氏:実はデータ自体は大きな問題ではなくて、解決しようとする課題を見極められるかが大事なのです。課題を解決する際、データをどう扱うかというところから考えるのではなく、解決しなくてはいけない課題を定義するところから考え始めなくてはいけません。実のところ世の中にあるほとんどの問題はとても単純で、そこにデータサイエンティストなんて必要ないのです。もちろんデータサイエンティストを必要とするビッグデータなどの領域はあります。でも現在、各省庁で問題とされている課題は実際のところどれも単純で基礎的な数学的知識やデータを可視化できる能力、課題の構造化や分析ができれば解決できるのです。だから私たちはなんでもかんでもデータサイエンティストに頼ろうとはしていません。そもそも優秀なデータサイエンティストは少なく、採用する事自体が大変なのです。データサイエンティストというのは数学や、コンピュータ、社会学などをかけ合わせた新しい分野を取り扱っています。だから研究する時間もかかるし、彼らのような人材を育成するのにも多くの時間を要します。優秀なデータサイエンティストを1,000人用意することなんてそう簡単にできるものではありませんよ。
―データという話で言うと近年ブロックチェーンやAIが注目されていますが、これらの技術の活用についてはどのようにお考えですか。
チャン氏:ブロックチェーンやAI、機械学習など様々な技術的なテーマが今回のICA会議でも話されていましたが、これらはとても広い領域です。基本的なところに立ち戻りますが、テクノロジーに課題解決を委ねてはいけません。最初に自分たちが問題を見つけ出し、その後どの技術を選定するのか考えるべきなのです。私たちはよくテクノロジーの話になるとテクノロジー自体が問題を見つけてくれるのではと期待しがちですが、そうではありません。テクノロジーは問題を見つけてはくれません。テクノロジーは問題を解決するためにあるのです。だからまず自分たちで問題を定義してみるのですが、一度定義すると実は解決方法が思いのほか簡単な時があります。先ほど話した電車の件もそうですが、問題が起きた際に必ずしも60人もエンジニアを動員する必要はないのです。はじめにデータを自分たちで見るべきなのです。ブロックチェーンも一緒です。よく私の元へ「ブロックチェーンを用いればなんでも解決できるはずだから助けてくれ」と相談をしに来る人がいますが、私は彼らに毎回必ずブロックチェーン以外の方法で簡単に、短時間で、そして低コストでできる解決策を提案しています。別にそれを提案すること自体はなにも間違っていませんよね。AIも同じです。私たちは市民が「この書類はどこに提出すればいいのか」と質問してきたらそれに対して正しい返答を行うという簡単なアルゴリズムと、自然言語処理を少し加えたシステムを作ったりはしましたが、機械学習の領域になると話は変わってきます。事業者の方が機械学習を用いた色々な提案を持ってこられますが、未だに一回も上手く行ったことがありません。機械学習というのは私たちが考えているほど単純ではなく、データのキュレーションやAIエンジンの教育には時間がかかり、複雑なのです。だから新しい技術についてはきちんと学ぶ時間が必要なのです。でも政府は別に新しい技術を使う必要はなくて、最先端の2歩後ろぐらいを歩いていても大丈夫なのです。
私はアップルのスティーブ・ジョブズのコンセプトがとても好きなのですが、彼がiPhoneを人々に見せた際に観衆に言った言葉を今でも忘れません。彼は皆に「iPhoneの中に入っているもので新しいものは何一つとしてない。」と言ったのです。確かにiPhoneに組み込まれている技術は最低でも3年から5年は経っている。でも彼は既存の技術をこれまでにない革新的な方法で組み合わせて一つにしました。政府もそうやって行動していくべきだと私は思っています。政府は勝手に最先端の技術を使って実験的な活動をしてはいけないと思いますし、する必要もありません。大抵の問題は既存の技術で解決できるからです。大事なのは、技術をどのように組み合わせてどのように解決するかなのです。
―最後になりますが、これから日本がデジタル変革を行う上で大切なことは何でしょうか。
チャン氏:やはりシニア層のリーダーシップはとても大切な気がします。一人で出来ることは限られていますからね。私自身もここ数年、国のために様々な変革を行ってきましたが、これはシニア層のサポートなくして実現することはあり得ませんでした。私の前の職場でも組織全体でテクノロジーに関する大きな変革を行おうとしていたのですが、当時のシニアプレジデントの内の一人が一点の曇りもなくこの変革に多大な資金を投入するべきであると言い切ったからこそ、その変革は実際に行われました。今の世の中にはこのようなリーダーが必要とされています。失敗を恐れずチャレンジしようとする若者たちに対して後ろからサポートをしてバックアップするようなシニア層がいれば、きっと変革は起きるでしょう。
「民間なくして変革などあり得ません」。そう強く語るチャン氏の話からもわかるように、民間を含めたエコシステムを創る必要性から始まったシンガポールのデジタル変革。市民と行政が一体となって共創していく文化の醸成は今後の日本にとっても大きな課題になっていくことになるだろう。
(取材・文/緒方 亮介)
チャン・チョウ・ハウ(Chan Cheow Hoe) GovTech副最高責任者兼政府CIO。会計学士および経営学修士。 |