1.メンタルヘルスに関する国の取り組み
働く人のメンタルヘルスの問題解決が重要な課題となっている。セクハラ(セクシャルハラスメント)、パワハラ(パワーハラスメント)、マタハラ(マタニティハラスメント)、カスハラ(カスタマーハラスメント)といった言葉が次々生まれ、職場の人間関係などが原因で心を病む人が後を絶たない状況が続いている。 国がメンタルヘルスの問題に本格的に取り組んだのはバブル経済全盛期の1988年だった。厚生労働省は同年9月1日、メンタルヘルスケアと心理相談担当者を規定した「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」を発表した。その後、バブル崩壊にともなってメンタルヘルス問題は深刻化し、1998年に国内の自殺者数が2万人台から3万人台へ増加した。それから14年連続で3万人台が続いた後、少し減り2万人台で推移している。 こうした背景から、厚生労働省は2000年に「事業場における労働者の心の健康づくりのための指針」、2004年には「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」、2007年には「自殺総合対策大網」を策定した。2008年にはメンタルヘルスに問題を抱える労働者に対する相談機関による相談促進事業を開始。さらに、2014年に労働安全衛生法の改正、2015年にストレスチェック制度の施行、2019年に働き方改革法、2022年にパワハラ防止法施行および新型コロナの流行で急増したテレワーク時の手引きの作成など、継続的な取り組みを行ってきた。 にもかかわらず、2022年度の労働安全衛生調査によれば、職業生活で強い不安、悩み、ストレスを感じている労働者の割合は82%にものぼっている。また、メンタルヘルスの不調が原因で、1か月以上休業した人は全体の0.6%、職場を退職した人は0.2%に及んだ。精神障害の労災補償は年々増加し、2002年の認定件数が100件(そのうち未遂を含めた自殺は43件)だったのに対し、2022年は710件(同67件)に急増した。 国の方針にもとづいて働く人のメンタルヘルスに力を入れてきたのが横浜労災病院である。労災病院とは、勤労者の健康と職業生活を守ることを目的とした医療(「勤労者医療」とよぶ)を担う病院を指し、全国に32か所ある。これらの労災病院グループは厚生労働省が管轄する独立行政法人労働者健康安全機構のもとで運営されている。同省は2003年1月24日に「第10次労働災害防止計画案」をまとめ、労働者の精神障害や自殺への対応策として、職場が労災病院などの外部施設との連携を図る必要があると訴えた。その一環として、2004年度から横浜労災病院を中核施設に位置付けた。労働者向けのメンタルヘルス相談は全国の労災病院で行っているが、同病院が中核施設に指定されたのは、全国の相談件数2万件のうち6,350件と圧倒的に多くを占めていたからである。横浜労災病院は「メンタルヘルス総合相談窓口」を設置し、全国の関係機関との連携を深めるなど中核施設としての役割を担ってきた。
写真1 横浜労災病院のメンタルヘルスセンター(左は受付、右は利用者がリラックスできるように設置されたマッサージチェア
(出典)筆者撮影
2.24年間に18万件超えるメール相談
1991年に横浜労災病院が開院すると、山本晴義さんは心療内科部長に就任した。同病院は自殺者が急増した1998年に予防医療を行う「勤労者メンタルヘルスセンター」を開設。山本さんはセンター長に就き、2000年からひとりでメールでの相談業務を担ってきた。当初は非対面の相談業務への懸念もあったため、センター長自らが担当することになったのだという。2000年には全国19の労災病院でも主に産業カウンセラーによる無料の電話相談が開始されている。2009年に厚生労働省委託事業としてメンタルヘルス・ポータルサイト「こころの耳」が開設されると、山本さんはその委員にも就任。また、全国の労災病院の相談業務は2015年に「こころの耳」に移管されたが、横浜労災病院のメール相談は、現在まで続いている。
写真2 山本晴義 横浜労災病院メンタルヘルスセンター長
(出典)筆者撮影
山本さんは2000年から現在までほとんど一日も休むことなく、メール相談業務を続けている。相談件数は、図表1のとおり年々増加傾向をたどり、2024年9月時点で18万8,228件に達した。相談者の職種は、事務職が6割と最多で、年代別では50代を筆頭に30~40代が多く働き盛りが大半を占めている。
図表1 メール相談の利用件数の年次推移と類型
(出典)山本晴義「メールカウンセリングによる心のケア」日本ストレスマネジメント学会第22回学術大会・研修会発表資料、2024年
メンタルヘルス相談には、対面でのカウンセリングに加えて、電話、メール、SNSといったツールが使われている。図表2に示すとおり、メール相談は、情報量が少ない、同期性が低いという特徴がある。
図表2 相談活動におけるツールの比較
(出典)山本晴義「メールカウンセリングによる心のケア」日本ストレスマネジメント学会第22回学術大会・研修会発表資料、2024年
「カウンセリングの基本は対面。メールは情報が非常に少なくて難しい。それでも24年間続いているのは空間的にも時間的にも制約がないためです。メール相談であれば普通の診察や講演活動などをしながらでも対応できます。一方、今一番使われているSNS相談は同期性が高く電話相談に近い。その場での対応が重視されるので、わたしはSNS相談はやっていません。メール相談はじっくり考えて対応できるのがよい点です。相談件数が増えているので役に立っているという実感をもっています、この実感がわたしにとっての報酬です」と山本さんは語る。
電話のようにその場で即座に対応しなくてよいとはいえ、「死にたいです」「生きる喜びを感じられません」「何をするにも自信がなく、人と会うのがすごく嫌です」といったメールを日々受け取るので、24時間以内に必ず返信すると決めている。またメール相談の実践では、メールの限界をわきまえる、相談者の立場になって臨機応変に柔軟に対応する、キュア(医療行為)ではなくケア(相談)と位置づける、サポーターとしてあなたを心配しているというメッセージを送る、仕事以外の個人的要因を把握してセルフケアを促す、治療中の相談に対しては主治医を信頼して話すよう勧める、などを心がけている。
「あなたはひとりではないというメッセージを伝える、辛い状態のときに自分をみつけてくれてありがとうと言う、辛いと言われたら、“今は”という言葉を前につける、そして何よりもプライバシーを大切にしている」(山本さん)。また、情報を求める相談に対しては「こころの耳」を紹介し、勤労者にはストレスチェックとサポートを受けられる「メンタルろうさい」の無料モニターを勧めている。
3.メール相談にChatGPT活用の試みへ
山本さんの24年間の経験に基づく考え方や方法は「山本流メール相談」とよばれ、産業カウンセラーを中心にそのエッセンスを学びたいという人が増えている。1948年生まれで76歳になった山本さんの方も、2021年に肺がんを患ったこともあり、自分の経験を広く伝えたいと考えて講演や研修に積極的に取り組んできた。その一環として、公益法人パブリックヘルスリサーチセンター(PHRF)では9年前から相談業務を担うカウンセラーの養成講座を開いている。ここでは、山本流を教えるだけでなく、複数のカウンセラーの相互学習によって互いに相談の質を高めることを重視しているのが大きな特徴だ。教育活動とはいえ、相談者のプライバシー保護はきわめて重要である。そのため、相互学習では架空の相談事例をつくり、それに複数のカウンセラーが回答を書き、互いに回答をみせあって評価するという方法で進められている。
「相談者目線でよいと思う人、スーパーバイザー(回答者)目線でよいと思う人をそれぞれ選んで投票します。20人で相互学習を行った場合、非常に優れた回答が20票近く集まるのではないかと思われるかもしれません。しかし、実際にはそうならず、最高でも7票とか6票だったりします。次は5票、4票と評価はいつもかなり分かれるのです。相談者と回答者の相性もあります。だから、PHRFメールカウンセリングサービス(有料)では、複数のカウンセラーから返信が届き、相談者は自分に合ったカウンセラーを選べるシステムにしました。」
さらに、相互学習の複数回答のひとつにChatGPTの回答を含めるという試みも行っている。「AIはさすがだと思うところがありますが、人の回答の方がよい。AIは今後よくなっていく可能性はあるけれど、人は絶対にAIには負けないカウンセリングをすると思います」という。とくに、AIに何を学習させるかという入口では人が介在し、プライバシーを特定されるものは入れないということと、相談者に最終的にどう回答するかという出口でも人が必ず介在する、人の目・手・心を通す、そのことが重要で、それを前提としてAI活用の研究を進めている。
ChatGPTのメリットとしてまずあげられるのは時間短縮、効率化である。メール相談への回答にかかる時間は、初心者だと2~3日、ベテランでも数時間必要だが、AIは瞬時に出力する。長文の相談がきたときはまずAIに要約させ、それで手早く概要をつかんでから本文を読むと短時間で理解できるようになる。ChatGPTは回答の質においてもすでに100点満点で80点くらいのレベルに達しているという。また、山本さんは医師の立場で回答を書くが、AIには多様な情報を学ばせられるので、経営者の立場や政策担当者の立場などで回答を出すこともできる。
「今76歳なので、これからは発想力が乏しくなっていくし認知症のリスクもあります。そこで、自分の経験をAIに学習させています。たとえ認知機能が衰えたとしても、AIの力を借りることでカバーできる。また、自分が死んでも山本流エッセンスを継承したカウンセリングを残すことができる。エッセンスといっても固定的なものではなく、AIはどんどん学習していきます。電話相談でも対面でもAIを使えますが、文字でやり取りできるメールは記録に残りますし、AI活用の突破口としても適していると考えています」と山本さんは話している。
4.生命情報を喚起するカウンセリング
カウンセリングにおけるツール活用は、電話からメールへ、さらに現在はSNSへと時代によって変化してきた。将来はVRを活用して、森のなかにいるイメージでゆったりとした気分でカウンセリングを受けることも検討されているという。メンタルヘルスに問題を抱える人のために、ツールも相談業務も進化している。
山本さんの活動を高く評価しているひとりが、公認心理師・臨床心理士・カウンセラーで情報システム学会「Psytech研究会」の主査をつとめる三村和子さんだ。Psytech(サイテック)とは、心理学を意味する“psychology”と、技術を意味する“technology”を組み合わせた造語で、ITを使った新たな心理的支援を指している。三村さんは基礎情報学・情報システム学の視点から次のように話す。
「メンタルヘルスにおいて、人間中心の情報システムには完成形はないのではないでしょうか。むしろ、人間中心の情報システムに近づこうとすることが大切です。人は与えられた命を全うしようというとき、生きている人間ひとりの力では限界があります。ほかの人と協力したり、先人の経験から学んだり、自分で得た大切なことがらを次世代にも役立つよう伝えようとする。ひとりひとりの力はちっぽけのように思えても社会全体の観点で人間活動をとらえようとするのが人間中心の情報システムに近づくことではないかと思います。山本先生の回答では、メールを拝見しました、よくメールをくださいました、とはじまり、ここにケアの姿勢と共感の言葉があります。人にとって大切な生命情報の喚起がここからはじまり、ラポール(心理学用語で信頼関係の意)が、相談者とカウンセラーの間に形成されているのです。そして、山本先生からの提案が続きます。例えばストレスケアや休養など。サポート希求について、上司や周りの人、家族などに頼ってよいことも伝え、同時にあなたは独りではないと安心感を与えます。言葉のやり取り、つまり社会情報と生命情報がここで生じています。さらに、相談者が自分でストレス傾向など把握できる“メンタルろうさい”のURLを紹介されることもありますが、URLは主に機械情報です。このような山本先生が提供する情報は、ラポールのもとで相談者にとって有益な情報ともみなされ、社会・生命情報にもなり得ます。さらに、主治医への相談や服薬継続などキュア(治療)へと誘(いざな)う、そして元気な生活や回復という希望のイメージが相談者につくられていきます。こうしたやり取りを通して、もう少しお互いに話を聞いてみようということになります。メールという機械情報をやり取りする媒体を使っていても、社会情報を交換し、さらには互いに生命情報を喚起し合っている。このように人として共に進もうとするイメージが人間として命を大切にすることではないでしょうか。」
写真3 三村和子 公認心理師・臨床心理士・カウンセラー
(出典)本人提供
西垣通が創始した基礎情報学では、情報とは、生物にとって意味や価値をもつ「生命情報」、生命情報の中から人間が抽出して社会的に表現できるようにした「社会情報」、さらに社会情報の中から意味内容を切り離し文字等の記号だけを抽出した「機械情報」の3種類に分類されている。近年は機械情報のなかでもデジタル情報の爆発的な増加が特徴となっているが、三村さんは生命情報の大切さを繰り返し強調している。山本さんのメール相談に三村さんが注目した理由もそこにある。
メンタルヘルスのカウンセリングにおいても今後ますますデジタル情報の活用が進むだろう。しかし、どれだけ機械情報を増加させても相談者が救われるわけではない。横浜労災病院のメール相談においても、すでに述べたように、AIが瞬時に回答を作成し自動返信するというような、人がまったく介在しない使い方は想定されていない。山本さんは「将棋の棋士とAIの関係のように、どちらも成長する。そのうえで、人がコントロールしているのがよいところだと思います。ChatGPTを使えば高齢者でも引退しなくて済むようになるかもしれません。相談者にとってはAIだけでなく人間の仲間やサポーターから支えてもらえる環境が望ましいと思います」と語る。
カウンセリングは、相談者を幸せにする仕事であると同時に、相談者とのやり取りを通じてカウンセラーの生きがいにつながる仕事でもあるはずだ。そのような関係を維持しつつAIを効果的に活用していくことが「人間中心の情報システム」の構築には欠かせないといえるだろう。
【参考文献】
・西垣通[2012]『生命と機械をつなぐ知 基礎情報学入門』高陵社書店
・山本晴義[2011]『メール相談事例集』労働者健康福祉機構
・山本晴義[2017]「心療内科医の立場から」『産業精神保健』25巻特別号
・山本晴義[2023]「勤労者医療とメール相談~16万件相談事例から学んだもの」『産業ストレス研究』第30巻第4号
・山本晴義[2024]「メールカウンセリングによる心のケア」日本ストレスマネジメント学会第22回学術大会・研修会発表資料)
・厚生労働省労働基準局藤堂衛生課『職場におけるメンタルヘルス対策の現状等』
https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/001236814.pdf
・「こころの耳」ホームページ https://kokoro.mhlw.go.jp/
・一般社団法人日本産業カウンセラー協会[2024]動画「JAICOのごきげんさん第17回:18万件のメール相談から見えること~山本晴義先生(横浜労災病院勤労者メンタルヘルスセンター長)」 https://youtu.be/uuiw5-uClII
・公益法人パブルックヘルスリサーチセンターのホームぺージ:https://www.phrf.jp/
砂田 薫(すなだ かおる)
情報システム学会会長/国際大学GLOCOM主幹研究員
ビジネス系IT雑誌の記者・編集長を経て、2003年から国際大学GLOCOMで調査研究に従事。専門は人間中心の情報システム、北欧型デジタル社会、情報政策史・同産業史。行政情報システム研究所客員研究員、中央大学理工学部兼任講師、総務省情報通信審議会専門委員、電気通信事業者協会「ユニバーサルサービス支援業務諮問委員会」委員&副委員長、情報通信研究機構「Beyond 5G外部評価委員会」委員、情報社会デザイン協会監事等の活動を行っている。